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Author:noguchiizumi
野口泉
オイリュトミスト
武蔵野美術大学映像学科卒。
2002年より舞踏家笠井叡に師事、オイリュトミーを学ぶ。オイリュトミーシューレ天使館第三期及び舞台活動専門クラスを経て、愛知万博「UZUME」(2005)「高橋悠治演奏「フーガの技法とオイリュトミー」(2008、2010)、「ハヤサスラヒメ」(2012)、「蝶たちのコロナ」(2013、2014)、「毒と劔」(2015) など様々な公演に出演。放射能からいのちを守る山梨ネットワークいのち・むすびばとの共同公演「アシタノクニ」や、「きつねおくさまの!ごけっこん」(2014)、シュタイナー農法研究会(「種まきカレンダーを読み解く」)などを開催。オイリュトミーに関わるイベントを企画する「レムニスカート」を主宰。

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『聖者たちの食卓』


インターネットを介して年末のごあいさつです。

みなさんいかがお過ごしでしょうか。
オイリュトミストの野口泉です。


さて、渋谷区で年末の炊き出しを阻止する措置が取られていますね。
どうして渋谷区はそのようなことをするのでしょうか?

渋谷区としてのメリットがそれほどあるとは思えません。
「街の景観を損ねる」との有力区民からの声でも上がったのでしょうか。
いずれにしろ不可解な出来事と言わざるを得ません。



最近「聖者たちの食卓」というドキュメンタリー映画を見ました。 


「インドには、毎日10万食の豆カレーを
ふるまうスゴいお寺がある!」


このコピーを見て、美味しそうなカレーがつぎつぎと出てくる、
コマーシャリスティックな映像を想像した私は、
期待に胸を膨らませ、映画館に駆け込みました。

しかし、そんな気持ちを軽く凌駕し、
この映画で繰り広げられたのは、想像を絶するものでした。
映画自体が奇跡の瞬間の連続だったと言っても過言ではありません。





黄金寺院<ハリマンディル・サーヒブ>では500年以上に渡り、
毎日10万人が訪れるという無料食堂がボランティアで賄われているのです。


そこで行われているのは、毎日、たんたんと祈りのように行われるさまざまな作業。

準備は早朝から。
畑にしゃがんで何万ものじゃがいもを掘り出す人たち、
無駄のない手つきでえんえんと掘り続ける。

掘り出したいもを集める人、袋に入れて口を縫う人、
腰の高さまである袋をトラックまで運ぶ人、

硫化アリルが目にしみるのは若者も年増の奥さんも同じです。
シートの上にしゃがんでひたすら玉ねぎを刻む。

にんにくの皮むき、山と積まれたにんにくをひたすらむく。
老人がむいたものを若者が集めていく。

牛からしぼってきたミルクを大鍋に移して二人で運ぶ。何往復も。
こぼさないためにはなるべく小刻みな足取りで素早く移動すること。
息を合わせて一気に運ぶ。

何万トンもの小麦粉を練る人。丸めて放り投げる人。(この作業たのしそう!)
丸めたものはすぐ小山になる。それを平たくのばす人。
チャパティがリズミカルにひっくり返されこんがり焼かれる。

どの場面でもすばらしい連携プレーが自然な形で行われている。
だれも急ぐことなく、急がせることなく。
老若男女がおもいおもいの姿勢で、自分のペースで仕事をおこなう。
無駄な人は誰一人としていないようだ。

そしてこれらの人々は、すべてボランティアなのだ。


そして、


やがて食事の時間が来る。

一回の食事を一緒に摂れるのは5,000人。人々が大広間に殺到する。
ここではどんな身分の人も同じ部屋で並んで食事をする。

10万人の食事を賄うには、1日に20回の給仕が行われる計算だ。
それに伴うまるで曲芸のような皿洗いも。。。



そして日が暮れていく。



************************


脅威のコミュニケーション


このドキュメンタリー映画を見て感じたのは、
「なぜこんなことが成り立つのだろうか?」という疑問、
そして、「もはや自分にはこのような生活は絶対にできない」というあきらめに似た確信です。


社会のオートメーション化によって私たちは幾分か「いらない存在」になったのかもしれません。
このような地に足のついた生活を、利便性と引きかえに手放した、とも言えます。

そのかわり私たちはパソコンやスマートフォンを手にしました。

電車の中ではほぼ9割方がモバイル機器を見ていますよね。
私も1日の大半をパソコンの前で過ごすことも多いです。

そんな日本現代社会のなかにいる自分が、全て手作業で10万人分の食事を作るということは、
高尾山にしか登ったことがないのにフィッツロイに挑むようなもの。
まったく現実感がありません。

各世代が相互に連携し、かつ個人の自由度も保たれたコミュニケーションを保ちながら、
何かを作り上げていくという機会は、現代日本において、永遠に失われてしまったかに見えます。





さてここで一つのお話を紹介したいと思います。


「ホレばあさん」というグリム童話です。


あるところに、
美しい働き者の娘と、みにくい怠け者の娘がいました。
みにくい娘はお母さんに可愛がられ、
美しい娘はうとまれ、いじめられていました。

ある日、美しい娘が糸巻きを追って泉に落ちてしまいます。

そこで泉の底にある世界を歩いていると、

パン焼きかまどに出会います。

中からパンが娘に呼びかけます。
「早く出しておくれ、わたしたちはもう焼き上がっているんだから」

美しい娘はパンを出してあげます。

また娘が歩き出すと、今度はりんごの木がありました。

りんごの木には実がたくさんなっていて
「この木をゆすって私たちを落としておくれ。
私たちはもう熟しているのだから。」
と、呼びかけました。

美しい娘はりんごの木をゆすって実を落とします。

しばらく歩くと、娘はホレおばあさんの家にたどり着きます。
立派に仕事を手伝い、こちらの世界に返してもらう時には、
娘のからだには黄金の雨がふりそそぎ、
その輝きは二度と娘から離れることはありませんでした。


このあと、みにくい怠け者の娘も、泉にわざと落ち、
美しい娘と同様に、パン焼きかまどとリンゴの木に出会います。

しかし、みにくい娘は、パンが焼けていても窯からパンを出さす、
リンゴの実を落とそうともしませんでした。
ホレおばあさんの家でもなまけてばかりです。

みにくい娘が地上に帰る時にはコールタールの雨がふりそそぎ、
そのねばねばは、一生取れることはなかったのです。





さて、美しい娘はパンをかまどから出し、りんごを落としますが、
それらを自分で食べません。
ほっぽらかして先へ行きます。

それではリンゴやパンは
いったい誰が食べるためのものなのでしょうか?

『メルヘンの世界感』という書籍のなかではこう解釈されています。

「これらの収穫物は、自分自身の地上(泉に落ちる前の世界)での行いの成果としての、りんごとパン
であると同時に、その食べ物は高次の存在の糧となっているのです。」

高次の存在はなんなのか、という問題は置いておき、
さて、このことを「聖者たちの食卓」でカレーを作る作業をしている人たちに当てはめてみましょう。

朝から晩までボランティアで10万食をつくる人々は、
自分のためだけの食事を作っているわけではありません。

おそらく自分の行為が現実世界だけのために行われているわけではない、という認識があるんだと思います。
そして「ホレおばあさん」の“美しい娘”はこのような認識をもった人物像として描かれています。


反対に、自分の行いがどんなものを助長しているのかに無頓着であるという意味において、渋谷区長は“みにくい娘”であると言えます。

パンが焼けていても窯からパンを出さす、実ったリンゴの実を落とそうともしない。
それらは誰にも食べられることなく、腐っていくのです。

日本では拝金主義という信仰が主流です。
多かれ少なかれ、お金がなければ老後は地獄だ、と思い込まされている。
それはインド人が来世を信じるのと同じくらいの強度でもって私たちに浸透している思想です。

しかし本当にそうでしょうか?

本当は、お金がなければ生きられない社会のほうがおかしいですよね?





この現代日本で、
誰かのためにパン焼きがまからパンを取り出し、リンゴの木をゆすることができるだろうか。

この“聖者たち”のように10万食をボランティアで賄うことはできないかもしれないが、
抽象的なことにしろ、具体的なことにしろ、できることはいろいろあるな、と思う大晦日です。



それでは来年も良い年にしましょう。
良いお年を!



【作品情報】
『聖者たちの食卓』
監督:フィリップ・ウィチュス、ヴァレリー・ベルト
2011年 65分
渋谷・アップリンクにて上映中!(2014年12月31日現在)
http://www.uplink.co.jp/movie/2014/29817
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